2018年10月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

« 2012年7月 | トップページ | 2012年9月 »

ちょいと心の休養

迷ったときは原点に返れ

焦らなくても良い 無理に結果を出さなくても良い


自分が自分らしくあること、それを大切にせよ


考える事はとらわれること

心で感じることを大切にせよ



あるがままを受け入れ 己の直感を信じよ


心を開き心の眼でみよ

思考の眼は狭きものなり


己を信ずること忘れるなかれ





時々ぼけ~っとしていると、ふいに頭に言葉が浮かぶことがある。

それが何なのかはわからない。

言葉尻も…ちょっと今風でなかったり?笑


それでも…今の自分の心境に対して的を得ている言葉ということは間違いなさそうだね。



ここ3ヶ月間。
本当に怒涛のごとく…嵐のような時間が過ぎ去っていった。

今までの自分の人生ではありえないくらいの人達と出会い
たくさんの物事を見て体験してきた。

自分に無いものを学ぶ機会になった反面
自分を振り返り…自分の無力さを痛感して自己嫌悪にも陥ったり。


人は人
自分と人を比べること自体が…意味のないことなんだけどね。

わかっちゃいるけど、完ぺき主義で欲張りな自分という「我」が心の奥底から顔をだす。


いくら…それはダメだ!と心から追い出そうと頑張ってみても
それもまた自分自身の光と影の部分。


光があれば影があるように…それもまた切ってもきれない一対のもの。


少しはうまく付き合えるようになったかな?
なんて思っていたけれど…
この三ヶ月間で、いろんな自分の中での常識がぶっ壊されて
またぞろ顔を出し始めたね。


自分とは何ぞや?
改めて想うと…本当に自分自身を一番解っていないのは自分だと痛感する。


自分は無力。
そう想えば…不思議なくらいタイミングよく
私のおかげで前を向くことができた…と言葉を貰ったり。


何かでなきゃいけない…否
何にもなる必要はない。

自分は自分で唯一無二の存在なのだからね。


なんて…人には偉そうに話すのだけれど、その言葉を一番欲しているのは自分自身なのかもしれない。笑



迷わなければ…人生はきっと楽しく楽なものとなるだろう。
迷い苦しみ続けるくらいなら…いっそ…?

なんて想ったことも多々あり。

だけどね、今こうして思えば…自分の苦や経験からこそ
人の苦を受け止め、何かを伝える術にもなっているのだと感じる。


ある意味…
これもまた、人の為に役立つ為の修行なのかもしれないな。


何事も苦と想えば苦になり
楽と想えば楽になる。

何事も自分の心次第。


辛い修行だって…自分がMだと想えば大丈夫!
あれ??そう言えば私はどMだったわ!笑


何かにとらわれ…しんどいなぁ~と想うことがあったなら
自分は変態や!なんて少し遊び心をもってみるのもありかもね♪

シャーマンと自然と②

前ブログのシャーマンと自然と①の続きです。



環境に限らず、人の体一つをみても…確実な変化が現れていることに気付く。

あなたが体の調子が悪くなった時、まず何をするのかな?
薬を飲む?大事をとって病院にいく?
これって…今なら当たり前のことだよね?

でも、よく考えてみて?
人間が「医療」というものを手にいて…どれほどの年月がたったのだろう?

今の人間は医療がなければ生きてはいけないほど、それが日常になってしまった。
医療がなければ…生きていけないのならば、今まで人は何千年と…どうやって生きてきたの??


今年になって出会った錬堂氏には本当に驚かされた。
彼の体現化させた天城流。

誰かに教わるわけでもなく、己の体と向き合うことで…そこから原因となる「滞り」を見つけ出し
体を自然の状態へ整える。

西洋医学のように切った張ったではなく
人間の本来持つ自然治癒力を発揮させるためのキッカケを与える技法だと想う。


この技法を学んでいると…
自然と同じように、人間の体もまた、微妙なバランスの上でなりたっているのだと感じることができる。

彼は自然との対話を「自分の体との対話」に落とし込んだ
日本を代表するシャーマンの一人でもある。





なぜ今この時にシャーマニズムが大切なのか?
なぜマヤを始め先住民族の長老集が声をあげて世界中を飛び回っているのか?

私が2012年というこの年に…その長老たちと深く関わる機会を与えられたのか?

きっと意味があるはず。


大自然の調和。人が人としての調和。

大きなもので言えば…地球という環境ともなるし、小さなもので言えば
身近な自然であったり、己の体であったりもする。

自分の身近にある、その一つ一つの全てが自然に繋がっていること。


自分ひとりのできることなど…小さくちっぽけなこと。
誰しもそう想うだろう?
私だってもちろん、その一人だった。

でもね、考えてみて
例をあげれば日本人が日常に使っている「割り箸」
その為に一人が一本の木を自分の為に切ったするよ。
日本だけ1億2000万人くらい人間がいるのかな?

一人が一本で…1億2000万本。
近くの公園や街路樹に、河川敷にはどれだけ木があるのかな?

例えは解りやすくする為に「木」にしたけれど…
人間一人が自然にとって「害」となることをするこで、それが集まれば…大きく環境を破壊することができるということ。

逆に言えば
その一人一人が小さな力ではあるけども…
自然の為に「何か」をする意識をもつことができれば…これもまた大きく改善することができる力ももっている。


2011年の東日本大震災「3・11」で思い知った人も多いと想うけれど
環境は大きく破壊されてしまった。
否。
あれは大きな「キッカケ」にすぎない。

本当は…経済優先の社会になりだしてから破壊の連鎖は始まっているのかもしれない。


金で全て買える!中にはそう言う人もいるだろう。
それはあくまで…自然と環境が整っている条件での話し。

簡単に言えば、大好きな札束を山ほど抱えて砂漠に一人で行って生きてください♪と言えば
金とはなんなのかわかるはず。


金は今の社会では切っては切れない大切なもの。
しかし…金が全てではないんだよ。
金の多い少ないだけに目を奪われて…本当に大切なものを見失って このまま歩み続けてしまったら
私たちの子供…孫、さらにその次の世代が生きていけない環境になってしまう。


先住民の長老集曰く。
「大自然は祖先が私たちに残してくれた大切な宝物」
「私たちには、その宝を…次へと繋ぐ「責任」があるのだと」


長老集が特別な人なのではない。
私たち一人一人がこの「地球」という星に寄りかかり生かされている一つの存在だよ。
私たちを生かせてくれる地球を私たちが守らなくて…誰が地球を守ってくれるの?

自分ひとりにできる事は小さなこと
でも…その小さな力も集まれば大きな力となる。

あなたが地球を自然を守ろうとする意識は絶対に無駄なんかじゃないから!

ひとりひとりが自分に出来ることを見つけ、本当に無意味じゃないの?と思える小さなことでもいい
それを行う「勇気」をもって欲しいです。

シャーマンと自然と

人が生きていくために必要なもの。

それは…身近なもので言えば、「大地」であったり、空気だったり水だったり
それは、どこから得られるのか?

今の時代ならば…水道の蛇口をひねれば水がでて、当たり前のように空気を吸っていきている。

しかし、その私たちが生きていて感じる…この「当たり前」は
小学生くらいの知識があれば、本当に「奇跡」に近い環境であることに気付くことができるはず。



人はいつの間に…
今の自分たちにだけ都合のよい生き方を「当たり前」と思い込むようなってしまったのだろうか?


人の歴史など…
この長い地球の歴史からすれば、ほんの塵程度の長さでしかない。
さらに言えば「文明」と言われる「時」を思えば…本当に一瞬のものでしかないはず。

その一瞬の中のわずか100年ばかりの年月で人の営みは激しく変わり、
地球と人とのあり方も大きく変わってしまった。


シャーマンとは何か?
この情報社会の中にあって…彼らの存在はあまり目立つことはなくなってしまった。
表にでて目立つためには、スピリチュアルのように…「超常的」なものばかりが目につく。


しかし、本来の「感覚」で言うならば…
自然との対話をできるもの、先祖から知識を受け継ぎ、大地の呼吸を読み取ることができる者を
シャーマンと言うのではないか?と私は思う。

自然との対話。
こういうと…また危ない話?と思う人もいるかもしれないけれど…
自然と一言に言ってみっても
その中には山があり、草木があって虫や動物が命を育み…そこに水や空気とった命を育む「元」となるものがある。


本当に自然を感じるためには、今の現代人としての常識という「視点」を一度はずす必要があるだろう。


登山道が整えられた、人の手で植林し人工的につくられた山ではなく
本当の原生林の森に入ってみるとよい。

そこには…本来あるべき姿の、命の連鎖を行うための「根本」がある。


私の師「錬堂」曰く

[本当の自然の山には木々にも命を繋ぐための「摂理」がある]

己の命をとして…次の命へと繋ぐこと。

原生林へ行くと見られる光景。
多種多様な木々が生い茂りながらも、適度な光で森の中が包まれている。
倒れ朽ちた木から…また新たな木や草という命が育まれる姿。
空を見上げれば、ぽっかりと…その命が育つための太陽の光が降り注ぐ空間がある。
人工林のように、あの全てを覆い尽くすような「どす黒い」暗さはない。


本当の自然には…人間のように己だけが生きようという「我執」がない。


錬堂{山の中には「神々木」と呼ばれる木々がある}

「その木々は…日差しが多く雨の少ない年には大きく葉を広げ下草や大地を守り、また雨が多く日差しの少ない年ならば逆に葉を縮め、大地へと届く日の光を増やす」

それはある意味、少し間違えば己の命を失いかけない行為ではないだろうか?


今の人間たちで考えてみよう…
己の命を危険にされしてまで、他の命を守ろうとするのだろうか?
私利私欲の為に、人を食い物にして…自分の利益のために大地を破壊し
己の命の元となる水や空気を育む森を破壊し、さらに長い年月命を危ぶませる放射能すら垂れ流しにしてしまう。

日々不毛の大地「砂漠」が面積を増やし続けている…それが典型ではないだろうか?


違うんじゃない?
人間は地球を支配している「つもり」でいるけれど…
本来人間なんてか弱いものでしかないんだよ。

地球がほんの少しその身を震わせるだけで、あっけなく生きてはいけなくなってしまう。


本来人間は自然界の一部でしかなく、地球に寄り添ってしか生きていけないもの。


その身一つで宇宙空間へ飛び出してごらん。
あっと言う間にその命は終わってしまうよ。


大地の意味を知り、先祖から受け継いだ大地と寄り添う生き方を次に伝え「命を繋ぐもの」それがシャーマンの本来あるべき姿じゃないのかな?
いや、シャーマンは特別なんかじゃない。
本来人間一人ひとりが自然とともに生きる「シャーマン」であるはず。

だってね
自然とよりそい生きるということは…
日々木々のつくってくれる「酸素」をその身にとりこみ、大地の育む「水」によって人は生かされているのだから。

そして水や酸素は人だけにあらず…大地を潤し虫たちの命を育み
虫たちもまた…魚や動物たちの餌になり、次の命へと繋がっていく。

人間は大地にとって不要なんじゃないか?
一時期そんなことも想い続けたことがあった。

しかしどうか?
本当に不必要なものが…この地球上に存在できるのだろうか?


例をあげれば…自然の世界遺産に登録された北海道の知床。
大自然の中に本来あるべき全ての生きる元があると言っても過言ではない。

しかし…そんな自然を見てみても、やはり微妙なバランスの中で成り立っていることに気付く。

鹿の食害。
天敵がいないために…鹿がその生息数を増やし、どんどん草木を食べ続け
木を枯らし、大地の水を蓄える能力を奪っていく。

私利私欲とは言わないけれど…目先の本能の為に己の生きる環境を食いつぶしている「人間の姿に」似てはいないだろうか?


彼らには…先祖から大地を受け継ぎ、そしてそれを己の代で守り、次に繋げる…などという意識はない。
結果はどうなるか?
そのまま行き続ければ、次に繋げるどころか…大地と共に死を迎え滅びることとなるだろう。


人間だって…この100年近くで、同じような環境になっているんだよ?

考えてごらん。
私たちの祖父母の代には…周りの小川の水ですら飲むことができた。
今では…金を出さなければ、まともな水すら飲むことができないんだよ?

今なら当たり前のようになってしまったけれど…「水」に金をだすこと自体をおかしいとは想わないかな?


極端な話をすれば、今目の前にある水では…まともに生きてはいけないほど環境は破壊されているということなんだよ?

枯れていた心

ふと…久しぶりに、ゆずの「栄光への架け橋」を聴いていた。
辛かったこと、苦しかったこと…今まで自分が足掻いて、ちょっとづつだけれど
乗り越えてきた過去を思い出す。

気がつくと…顔は涙でぐしょぐしょになっていた。



しっかし…私は泣き虫だなぁ
人前でも感極まってすぐに泣いてしまう。 


でもそれは今の自分…
いつだろうなぁ  以前の自分は人前で泣くことなんて滅多になかった。
それどころか…いつも感情の無い冷めた目をしていたね。


学生時代を振り返れば
人を信じることもなく、いつも心は孤独と苦しみでいっぱいだった気がする。
自分の存在価値もわからず…全てに絶望して自殺未遂した夜。
あの時の心の渇きは今では懐かしい思い出。


そんな私が今の自分になれたのは…
本当に私の為に長年尽くしてくれた一人の人物のおかげだった。


どんなに私を信じてくれても…私の乾いた心と硬くなった殻は
容易に変化するものではなかった。
何度も…泣かせてしまったね。
「どうして信じてくれないの?」今でもその言葉が胸の奥に刺さっている。


それでも注ぎ続けてくれた愛。
挫折の度に側で支え続けてくれた人。


いつしか年月が過ぎ…それが当たり前のようになっていき
いつしか私はそのありがたみを忘れていたんだね。


失って気付く愚か者。
10年以上の長い歳月。


我を振り返り反省してみて改めて学ぶことの多さに気付く。



自分を振り返ってみて気付くこと。
心の渇や人を信じれない殻は…用意には変えることは出来ないのだと。
出来る人からすれば、そんなものは簡単なこと。

でもね、出来ない人からすれば…その感覚を変えていくのは
本当に血のにじむような努力が必要だということ。


今の自分に出来ること…
そうだね、彼女にもらったバトンを次に繋げることなのかな?

今でも人に求めることは苦手。
それでも…人に与えることは出来る。

私はお金も力もない。
それでも誰かに寄り添い、痛みを分かち合うことは出来るはず。
それが誰かの力となり…またその「想い」が誰かに繋がっていくと嬉しい。

それがきっと自分に出来る数少ないことだから…



今日はちょっと自己反省日記でした。

褒めるとは…どうしたらいいのか?

どうしたら良いは…やり方かな?ちょっとこの言葉には違和感を感じる。
本当に大切なのは、自分自身の「心のあり方」だと私は想う。


なぜならば…自分が心から相手を想わないと、心のこもっていない薄っぺらな言葉では
相手の心に響かせることは出来ない

それは体の表面を撫でられて「心地よい」と感じる程度の浅いものになってしまうから。
それで満足出来る人は良いけれど…表面だけの暖かさは、時間が経てばすぐに冷めていってしまう。



私のイメージは…相手の心に響く褒め言葉というは…
温泉でじわ~っと相手の体の芯を暖める。そんな感じかな?


これから私が相手を褒める時に意識していることを書いていきます。


①まず自我を消す。
 
自我を消すというのは…自分という価値観の器を取り外すこと。
自分という価値観があると、どうしても自分と相手を比べてしまうから。
これがあると…自分の方が相手よりも頑張ったり、勝っていることがあると
相手を尊重することが難しくなってしまうから。
大人が子供の悩みを聞くと…(そんなことで悩むの?)と感じることあるでしょ?
だけど、当の本人は そのことで悩み必死に頑張っているはず。
大切なのは、相手の人生観の中で…それがどれほどの本人に苦労や努力に繋がったのかを感じ取ること。


※ここで注意してもらいこと
以前の私がそうだったのだけれど…「自分に自信のないひと」

とくにこういった人は自我をしっかりと消さないと…人を褒めることはできない。

なぜか?
だってね…自分に自信がないのだもの…自分よりも相手の方が優れていると他の人に想われたら
自分が惨めでしょ?笑

そんな心境のときの私は…人を褒めるどころか、人の欠点やあら捜しをしては人の悪口を言ってこき下ろして
何かの努力をしたわけでもないのに…自分が優位に立った気分になって自己満足していた愚か者でした。
(うわ~…書いてて だんだん苦しくなってきた。笑)







②相手の話を傾聴する。

傾聴というのは…耳で聞くのではなく、心で聴くことだと私は想う。

そんなの当たり前だろ!と突込みが入るかもしれないけれど…
これが以外に出来ているようで、出来ていないことが多い。

ふと自分を振りかえってもらいたい。
相手と話をしているときに…自分の頭の中が相手の会話でいっぱいになってる?
そこに自分の感情は入っていない?
頭の中で突っ込みいれてない?
次に自分が何を言おうか考えてタイミングを見計らってない??

いくら相手の話をしっかりと聞いているつもりでも…
本当に相手の話を自分の心の奥底に受け取らないかぎり、相手の想いを「心」で受け止め感じることは難しい。





③相手の感情を感じとる。

これは少々難しいかな。
人によっては感情を押しころす事になれてしまい…自分を表現することが苦手になっている人もいる。
あと、信頼関係が築けていないうちは…自分の本音を相手に出さない人も多いね。


それでも不思議なもので…
人間はふとした瞬間に「本音の自分」を出すことがある。


どんなに良い自分を演じていても…
短距離や長距離のランナーが苦しくなった時に少し苦悶の表情を出すかのように それは本人も気付かないまま不意に現れる本当の自分。
(人当たりがよく…周りの人には優しい人、と言われている人でも…あれ??この人何か違うな?と私は感じることがある)

人によっては目の動きだったり、顔の角度、視線の流れ、口の動き、声の大きさやトーン
体の向き、手の動き、組、呼吸、と様々。


こればかりは本当に微妙なもので…正直私もそこから読み取ったつもりが、かなり勘違いで失敗経験もある。


心理学の本を読めば…いろいろな体の動きや仕草で心理を読み取る方法もあるけれど
実戦では、残念ながら…本のマニュアル通りになることは多くない。


話の途中で目線が泳いだから…この人はうそをついている!なんて極端な例だけれど
それは「決め付け」になってしまうので注意だね。


大切なのは…相手の心境を受けとることを大切にして「感じる」こと。

さっきの例ではないけれど…
相手の表情や仕草、体の動きで(あれっ??)と「何かを感じる」だけでよい。


それがよい意味での違和感なのか…(相手が謙虚で自分の想いを押し殺している場合)
悪い意味での違和感なのか…(相手がうそをついて自分を大きく見せようとしている場合)

時には、本当に相手自身が「無意識」で行って場合もある。
(深層心理の自我は…本人も意識していないことも多い。人に言われてみて…あれ?と認識してみたり
時には激しい感情となって表面化することもある)


それを何となく感じて受け取ることが大切だと想う。
そこから…相手の言葉と表情や仕草の違和感を感じ取り、相手の本音の部分を感じ取っていくこと。


「たいしたことはないんだよ…」と言葉では言いつつも、ちょっと辛そうだな…とか
その相手が本当はどう感じているのか?を感じ取ってみたり、最初は難しく考えないで
本当にちょこっとの些細な変化で十分だと想う。



④相手の立場に立って考えてみる。(心を開く)

私がケイラクにいた時に その時の先輩によく言われたこと。
「相手の立場に立って考えろ」

当時の私には…かなり難しかった。
だからといって、今の私ができるようになってるかも…ちと微妙かな?笑


相手の立場に立つ。
言葉で言うのは簡単なんだけれども…
これって実際にやるとなるととんでもなく難しい。

当時の私だって30代になりながらも
「そんなの無理でしょ?人は人、自分は自分。人の価値観なんて解るわけもないし…自分の価値観だって人に解ってもらえるはずはない!」と想っていたからね。

そう!今誰かの突っ込みがあった気がしたので…あえて自分で言うけれど、ハッキリ言って「ひねくれ者」でした。笑


そんな私が どうしてこの言葉を使うのか?
ふと…一つのことに気がついたから。

そう。さっき話していたことじゃないけれど…自分の苦労や辛いことといった感覚は「本人にしかわからない」
そんなの当たり前と言えば当たり前のことなのさ。

じゃあ…意味ないじゃない?

そうでもないんだね♪

全てを「解ろう」とするから無理が生じる。
そう「全て」完璧 100% これじゃなきゃダメ!と想えば…そうでないことは全て無駄になってしまうのさ。


ならば…ちょこっと視点を変えてみれば良い。

100%が無理ならば…80%いや60%だって良い。

大切なのは 相手の心に自分の心を共感させること。

感じることで自分の言葉には「心」がこもり、その言葉はおべっかやお世辞のような薄っぺらなものではなくなる。
これが出来ると…結構心を開いてくれる人が多いね♪


だってね
相手を感じようとするということは…自分の心を相手に向けて開くことになるでしょ?
自分が心を開いていないのに相手に開いてもらおうなんて都合がよすぎるし…
だいいち、心を開いてくれない人に自分だって心を開こうなんて思わないでしょ?笑





まとめ

いろいろなあり方を書いてみたけれど…人は千差万別。
もっともっといろんな方法があると想う。

けれどね…どんなに姿形を変えたとしても、やはり人間は人間。
その本質は変わらないと想うのね。


言葉とは…心と心のキャッチボール。
自分が相手に向けて…どんな球ををなげるのか?
相手が受け止めやすい球?相手に怪我を負わせる危険な球?


「人として人を想いやり、人を好きになること」

根っこの部分はもう、これ以上でもこれ以下でもないと想う。


自分が人に大切にしてもらいたいならば…まず自分を大切にすること。
そして…人に接するときには、我を捨てて 自分を大切にするように人を大切にすること。

それが出来るようになれば…あなたの周りには明るい笑顔と自分を想ってくれる暖かい人の縁が
溢れていることでしょう。


あなたの人生が孤独でなく、明るく笑顔の溢れるものになることを願っています。

人を褒めること

「褒める」というと…あなたならどんなイメージが浮かぶだろうか?

「その鞄いいね♪ 今日の髪型イケてるね♪」

書店のハウツー本を読めば「褒め方のテクニック」は嫌というほど見ることができる。
それに誰しも何かしら自分のことを褒めらて悪い気はしないだろう。


それは…それで人と人の日常のコミュニケーションをはかる上では大変重要なことだと想う。


ただね、本当に心から相手に想いを伝えたい…感じて欲しい!と想うなら
残念ながらこれでは相手の「心に響かせる」まではいかないんだね。


さて、ここからが本題。
あなたは上辺の褒め言葉で満足してしまうのか…?
相手の心に届かせる褒め言葉を言うのか?

私がたくさんの失敗の中から学んだ「心のあり方」を伝えたいと想います。
※(これは私が自分の人生体験の中から学んだことで…全ての人に通用するものではありません)


いろいろな人と話をしていて…感じること。
「自分などたいしたことはない」「自分は何もやっていない」

自己満足の自慢大好き君は別にしておいて…笑

謙遜なのか…謙虚なのかわからないけれど、自分がやっていることを「たいしたことではない」と
思い込んでいる人が多いことに気付く。


50~60代の人生のベテランさんでも「たいしたことはしていない」と言う人も多い。


たいしたことはない?
本当にそうだろうか?

長い短いは別として…あなたが今まで生きてきた人生の中で
失敗して悔しかったこと、死にたいくらい辛かったこと、壁にぶち当たって挫けそうになったこと、
全くないだろうか??

後になってみれば…笑って話せるたあいもないことだって、その時には自分なりに必死に考えて乗り越えたことってあるんじゃない?



私が意識的にやっているのは…
「その部分」本人が無意識にしてしまっている、私から見たらすごいことを発見してプラスに伝えること。


持っている物や地位や名誉ならば、誰でも気付く事ができるしわかりやすい。
だけど…それをもっていないけど頑張って生きている人だってたくさんいる!
そんな人達に自信と勇気をもって元気に生きて欲しい!と想い。
私は「褒める」大切さをたくさんの人に伝えて行きたい。


人は自分を受け入れてくれた人には好意を抱くもの
それは自分の両親だったり、親友だったり、上司だったり様々だと想う。

逆をいうと…いつも怒ったり人を否定ばかりしてくる人に好意を抱いたり、心を開こうとは想わないでしょ?
自分が一緒にいて心地よいと想う人を思い出してもらうと解りやすいと思う。


自分が相手を受け入れることで…自分も相手に受け入れてもらうことができる。
これが身についてくれば、人間関係もどんどん円満になっていくと想います。





これは…この文章を見る人によっては「おまえは何様だよ?」と感じる人もいるでしょう。

あえて言うなら…ただのどこにでもいる一人の凡人です♪笑

そんな凡人が、自分の人よりも多い たくさんの失敗の中から…
ちょこっとづつ失敗しないために学んでいったことの積み重ねを書いているだけです。笑

勉強も人よりできるわけでもないし、学歴があるわけでもない。

それでも人間が好きだから…少しでも誰かが元気で笑顔になってくれたら嬉しいし
その笑顔と元気は、更に誰かの笑顔や元気に繋がっていくからね♪


私も教える立場ではありません。
日々学びをいただきながら…努力と進歩を繰り返している一人の人間。

これからもたくさんと出逢いと学びの中で成長していきたいと想います。

さて次はからは本題の「褒めるとは…どうしたら良いのか?」に入ります。

自分が変われば環境も変わる

今日、以前中村文昭さんの件でお世話になっていた古川ご夫妻と会う機会がった。

その時に会話の中で…
「環境が変わると人が変わり、自分が変わると環境が変わる」話が出てきた。


古川さんの場合は…中村文昭さんの講演会を主催して、その縁でたくさんの人達と出会い
自分が変化することで周りの付き合う人達もかっていった話をしてくれた。


私も…それを最近と過去の自分に置き換えてみると、かなり納得できることがあった。


今の私の周りの人達は…
マヤ暦の仲間、錬堂塾の仲間、プライベートにしても、皆前向きの発言が多く愚痴を聞くこと自体めっきり無くなった。

よくよく考えてみると…
自分自身が愚痴や「でもでも」を言うことが少なくなっていることに気付く。


一番想ったのが…
以前の自分はかなりのマイナス思考で、一番落ち込んでいたときには…
自分に自信がなかったこともあり「死にたい死にたい」とよく言葉にしていた。

今だから笑い話なんだけれども
ある時期、いつも死にたい…死にたいと言っていた時に、少しの間付き合った人がいた。


不思議なことに…その相手の人も「死にたい、死にたい」と口癖のように言ってたっけ。
今になって考えてみたら、その人と無理心中とかになってなくて好かったと想う。笑


古川さんの話で…
最近中学時代の同窓会に参加してきたと。
そこでは…「でもでも」や不平不満のオンパレードで…
気心しれている仲間のはずなのに、ものすごくそこにいることに違和感を覚えたとのこと。


私も18日に小学校時代の同窓会がある。
二年ぶりに見る同級生の顔ぶれ…
二年前に感じなかったことを感じるのだろうか?とても楽しみだね。笑


類は友を呼ぶ…じゃないけれど
不思議と自分が呼んでいるご縁も中にはあるはずなので
周りの人に何か違和感を覚えることがあったなら、一度自分自身も振り返ってみることをお奨めします♪

日本一の向日葵畑

日本一の向日葵畑
日本一の向日葵畑
日本一の向日葵畑
今年もやってきました♪

面積日本一の向日葵畑

場所は…北竜町という旭川から西に位置する自動車で片道一時間の距離。


満開の向日葵にバックに青空が揃った時には…何とも言えない絶景になる♪


太陽に向かって一生懸命に伸びる向日葵。
一昔前のSMAPの『世界に一つの花』じゃないけど…
そんな巨大な畑の無数の中にも、それぞれに個性がある。

端から見れば…育ちが悪かったり、形が崩れていたり。

でも、その一つ一つがあって初めて『畑』として成り立つ事ができる。

『自分なんていなくても…』
自信のない時はそう感じることもあるだろう。

そんなことはない。

一本一本、人間なら…1人1人がいて初めて出来る形もある。

だから…自分の存在は絶対に無駄なんかじゃない!

全ては一つであり
一つは全てでだよ。


最後ちょっと難しくなったけど…

向日葵が太陽に向かって咲くように

しっかり上を向いて生きていけば…
必ず自分らしい『花』を咲かせられますとも♪


あなたの咲かせる花が…誰かに幸せを与えられるものでありますように。

こんな年だから?

30歳も半ばを越え…人生もそろそろ折り返し地点にきたのかな?と想う今日この頃。

それくらいの年齢になると…同級生や周りの人達を見ると、本当に様々な人間模様があることに気付く。


中でも会話の中に多く出始める一言。
「もう…36歳だしなぁ…。」

確かに30辺りから体力的に衰えを見せ始め、35あたりでかなり実感をするようになってくる。


36歳というのは自分を含めて一つの例にすぎないのだけれど
結構周りで…何かを始められない理由を年齢のせいにしている人って多くないかな?


「もう…○○歳だから…。 あなたは若くて良いわね。 若かったら何でもできるでしょ?」


はぁ……??


これは20代の頃にも30代後半の人に言われたことがある。
って…!ほぼ今の私の年齢やん!笑


正直…こういった人を今見ると…(暇なんだなぁ…)と悪いけど想ってしまう。


だってね。
今自分に出来ることを探して…それに集中して頑張っているならば
「若かったらできた」なんて思っている暇すらないでしょ?


それにね…体力面では今の師匠の錬堂さん。
齢62にして、私より遥かに持久力、体力、精神力がある。
彼はけしてそれが特別というわけでもない。

虚弱体質に加えて…若い頃に不摂生を繰り返し、体を壊して臨死体験までしている愚か者。
師匠に愚かは失礼だけれど、そんな人でも日々の努力で未来を変えていくことができる。


先月 伊豆の体会議で出会った人達。
みなさん年齢的には40~70代近い人生のベテランさんたち。

ただ…テレビや本で見ているだけならば、雲の上の凄い人!くらいの認識しかないけれど
実際にお話をしてみれば…それぞれが「ただの自分と同じひとりの人間」ということに気付く。


年齢でもう一度言うならば…
辻 輝子さん。
皇后様の陶芸の先生をされている方。
この方は齢90になる。

それでも…今自分に出来ることを!と平成の文化を残そうと美術館の建設にと一生懸命頑張っている。

彼女もまた…身近に空気を感じてみれば、一人の齢を多く重ねた「人間」でしかない。



それぞれが特別なんかじゃないんだよ。

ただ…それを「自分がやらない、出来ない理由」を「年齢」に置き換えて自分を正当化しているだけ。


年を重ねれば、体力は必ず衰える。それは自然の摂理。
でもね…その分人よりも経験をつみ、知識や生きるための技術は増えているはずでしょ?

どうしてそれを自分が認めてあげようとしない?解ってあげない?
自分は自分なりに今を必死にもがいて頑張っているんじゃなないの?

先に例として書いたけれども…
人と自分を比べることなんて 意味の無いことだよ。


今の自分には…きっと今の自分にしか出来ないことが必ずある!!

それを自分が信じてやらないで…誰が信じるのさ??


生きていることも、年を重ねることも 絶対無駄なことなんてないから!


後は自分が…「今」を「遅い」と想うのか?「ここから」と想うのか?その心の持ち方一つなんだよ。



私はこの二ヶ月間がむしゃらに頑張った。
自分に出来ることなんて…本当に特別なことなんて一つもなかった。
ただ…誰でも出来ることを自分なりに精一杯やった。
それで道が開け、たくさんの出逢いをいただき、学びの機会をもらうことができた。

ただ…それだけ。

本当に特別でもなんでもない。

あとは自分がやるか?やらないか?それだけのこと。


もう一度自分としっかり向き合ってみて!
出来ないこと、出来ない理由を探すのではなく。

今自分には「何が出来るのか?」あとは…それに少しの勇気をもって実行して続けていくだけです。

あなたの将来が…人生の集大成である「死ぬ間際」に後悔のないものになることを願っています。

人の信用の得かた

信用というと…人間関係、特に社会的信用というのが一般的に多く使われると思う。

社会的信用は…納期を守るとか金銭的な売り上げや銀行返済…書き出せばめんどくさいことが山盛り。


私のいう信用は、そういった社会的ではなく
「一人の人対人」での人間性としての信用。

やり方はハウツーは本屋にいけば山ほどあると思うけれど、
私としては…信用を得るためにどうするか?という上辺のものではなく

人としてどうあるべきか?といった内面の「心のあり方」について
自分が実際に経験して感じたことを書いていこうと想います。



まず…最初に「損得勘定」を捨ててください。

これがあるうちは、どんなに頑張ってみても…上辺だけのものになってしまいます。
それに、見ていると…これは解る人には解るものだから。




人は自分のやったことに対して対価を求めがち。
対価を求めるどころか…それ以上を望む人間の方が多く感じる。


自分に置き換えて考えてみると良い。
自分が相手に感謝するとき…この人なら。と感じる時ってどんなときだろう?
本当に損得なしで、自分の困っているときに誠心誠意頑張ってくれたときではないだろうか?


でもね、それって…やるほうにとっては明らかに自分にとって何かしらの見返りがあるわけではないし
損得で言えば「損」なのさ。


そこに…自分がどんな感情をもつのか?どう捉えるのか?そこが一番大切なところ。
それこそが自分の「心のあり方」

人に何かを出来たこと、頑張った自分を誇り満足する。
そこに喜びを見出すことができれば…人からの見返りは必要なくなる。



ちまたの愚痴のたぐいは…これが本当に多い。
「あいつの為にしてやったのに…」

こうなりゃ本末転倒さね。


信用というのは一回二回で簡単に得られるものではない。


結局は自分がどれだけ見返りを求めずに人の為に頑張れるのか?が大切になってくる。


信用は時に素晴らしいご褒美を運んでくれることもある。

素敵な出会いだったり、素敵な情報だったり♪

そこまで行き着くには日々の心がけと積み重ねが大切。


目先の損得に左右されずに…人の為に尽くし、素晴らしいご縁をたくさんの人が得られることを期待します。

« 2012年7月 | トップページ | 2012年9月 »