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シャーマンと自然と

人が生きていくために必要なもの。

それは…身近なもので言えば、「大地」であったり、空気だったり水だったり
それは、どこから得られるのか?

今の時代ならば…水道の蛇口をひねれば水がでて、当たり前のように空気を吸っていきている。

しかし、その私たちが生きていて感じる…この「当たり前」は
小学生くらいの知識があれば、本当に「奇跡」に近い環境であることに気付くことができるはず。



人はいつの間に…
今の自分たちにだけ都合のよい生き方を「当たり前」と思い込むようなってしまったのだろうか?


人の歴史など…
この長い地球の歴史からすれば、ほんの塵程度の長さでしかない。
さらに言えば「文明」と言われる「時」を思えば…本当に一瞬のものでしかないはず。

その一瞬の中のわずか100年ばかりの年月で人の営みは激しく変わり、
地球と人とのあり方も大きく変わってしまった。


シャーマンとは何か?
この情報社会の中にあって…彼らの存在はあまり目立つことはなくなってしまった。
表にでて目立つためには、スピリチュアルのように…「超常的」なものばかりが目につく。


しかし、本来の「感覚」で言うならば…
自然との対話をできるもの、先祖から知識を受け継ぎ、大地の呼吸を読み取ることができる者を
シャーマンと言うのではないか?と私は思う。

自然との対話。
こういうと…また危ない話?と思う人もいるかもしれないけれど…
自然と一言に言ってみっても
その中には山があり、草木があって虫や動物が命を育み…そこに水や空気とった命を育む「元」となるものがある。


本当に自然を感じるためには、今の現代人としての常識という「視点」を一度はずす必要があるだろう。


登山道が整えられた、人の手で植林し人工的につくられた山ではなく
本当の原生林の森に入ってみるとよい。

そこには…本来あるべき姿の、命の連鎖を行うための「根本」がある。


私の師「錬堂」曰く

[本当の自然の山には木々にも命を繋ぐための「摂理」がある]

己の命をとして…次の命へと繋ぐこと。

原生林へ行くと見られる光景。
多種多様な木々が生い茂りながらも、適度な光で森の中が包まれている。
倒れ朽ちた木から…また新たな木や草という命が育まれる姿。
空を見上げれば、ぽっかりと…その命が育つための太陽の光が降り注ぐ空間がある。
人工林のように、あの全てを覆い尽くすような「どす黒い」暗さはない。


本当の自然には…人間のように己だけが生きようという「我執」がない。


錬堂{山の中には「神々木」と呼ばれる木々がある}

「その木々は…日差しが多く雨の少ない年には大きく葉を広げ下草や大地を守り、また雨が多く日差しの少ない年ならば逆に葉を縮め、大地へと届く日の光を増やす」

それはある意味、少し間違えば己の命を失いかけない行為ではないだろうか?


今の人間たちで考えてみよう…
己の命を危険にされしてまで、他の命を守ろうとするのだろうか?
私利私欲の為に、人を食い物にして…自分の利益のために大地を破壊し
己の命の元となる水や空気を育む森を破壊し、さらに長い年月命を危ぶませる放射能すら垂れ流しにしてしまう。

日々不毛の大地「砂漠」が面積を増やし続けている…それが典型ではないだろうか?


違うんじゃない?
人間は地球を支配している「つもり」でいるけれど…
本来人間なんてか弱いものでしかないんだよ。

地球がほんの少しその身を震わせるだけで、あっけなく生きてはいけなくなってしまう。


本来人間は自然界の一部でしかなく、地球に寄り添ってしか生きていけないもの。


その身一つで宇宙空間へ飛び出してごらん。
あっと言う間にその命は終わってしまうよ。


大地の意味を知り、先祖から受け継いだ大地と寄り添う生き方を次に伝え「命を繋ぐもの」それがシャーマンの本来あるべき姿じゃないのかな?
いや、シャーマンは特別なんかじゃない。
本来人間一人ひとりが自然とともに生きる「シャーマン」であるはず。

だってね
自然とよりそい生きるということは…
日々木々のつくってくれる「酸素」をその身にとりこみ、大地の育む「水」によって人は生かされているのだから。

そして水や酸素は人だけにあらず…大地を潤し虫たちの命を育み
虫たちもまた…魚や動物たちの餌になり、次の命へと繋がっていく。

人間は大地にとって不要なんじゃないか?
一時期そんなことも想い続けたことがあった。

しかしどうか?
本当に不必要なものが…この地球上に存在できるのだろうか?


例をあげれば…自然の世界遺産に登録された北海道の知床。
大自然の中に本来あるべき全ての生きる元があると言っても過言ではない。

しかし…そんな自然を見てみても、やはり微妙なバランスの中で成り立っていることに気付く。

鹿の食害。
天敵がいないために…鹿がその生息数を増やし、どんどん草木を食べ続け
木を枯らし、大地の水を蓄える能力を奪っていく。

私利私欲とは言わないけれど…目先の本能の為に己の生きる環境を食いつぶしている「人間の姿に」似てはいないだろうか?


彼らには…先祖から大地を受け継ぎ、そしてそれを己の代で守り、次に繋げる…などという意識はない。
結果はどうなるか?
そのまま行き続ければ、次に繋げるどころか…大地と共に死を迎え滅びることとなるだろう。


人間だって…この100年近くで、同じような環境になっているんだよ?

考えてごらん。
私たちの祖父母の代には…周りの小川の水ですら飲むことができた。
今では…金を出さなければ、まともな水すら飲むことができないんだよ?

今なら当たり前のようになってしまったけれど…「水」に金をだすこと自体をおかしいとは想わないかな?


極端な話をすれば、今目の前にある水では…まともに生きてはいけないほど環境は破壊されているということなんだよ?

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